パラパラスイカメモ

スイカ・フウのメモ帳

「見なかったことにはできない」

マダムのマンションに到着した。
 
こんなご時世だから、披露宴もハネムーンもなし。
マダムはそう言っていた。
 
マダムというのはあだ名だった。
あふれる自信と貫禄、ハデで濃い顔立ち、本人の性格、どれが決定打になったのかはわからないが、彼女は学生時代からマダムと呼ばれていた。
今から思うと、一歩間違えば嫌がらせになりそうなものだったが、彼女は笑って受け流した。ポーズではなく、本当に気に病んでいないようだった。もちろん、内心までは私にはうかがい知ることができない。本当はとんでもなく悩んでいた可能性もある。
しかし、マダムはいつもマダムと呼ばれていた。
 
私はマダムに頼まれてここに来た。
 
「ペットがいるのよ。1週間、エサやりに行ってくれる人を探してるの」
 
マダムはこの春に結婚して、名実ともにマダムになった。
マダム本人は、勤務先の事情もあり、すでに新居に引っ越している。
しかし、新居は前の家、つまりこのマンションから遠かった。
 
ペットを連れて移動をしようとすると、引っ越し日時が一週間ほどずれてしまうらしい。
いつもペットの世話をしていたシッターはいたが、日程の折り合いがうまくつかないようだった。
というわけで、私の出番だった。
私はマダムの大学時代の後輩で、今も交友があり、さらに言えば比較的時間に余裕があり、なおかつ近所に住んでいたからだ。
 
チャイムを押して、反応がないのを確認して、預かっていた鍵で中に入る。
マンションのマダムの部屋のドアを開けると、あることに気づいた。
香りだ。
 
動物の匂いではない。
人間も動物の一種ではある。それはそうなのだが、それも含め、ここに漂っているのは動物の匂いではない。
残り香で、かすかなものだが、確かに感じる。
 
香り、としか言いようがない。
香水なのか、香木なのかはわからない。もしかしたら、消臭剤や洗剤、柔軟剤の香りかもしれない。とにかく人工的な香りだ。
こんな香りをさせて平気なのは、人間くらいではないか。
なんとなくそんなことを考えた。とは言っても私は人間(のはず)だが、あまりこの手の香りが得意でない。
わずかな残り香でまだよかった、と、頭の片隅で考えた。
 
ここにいるのは猫のはずだ。
私は猫の姿を探そうとした。
 
玄関から上がるときに、靴につまずきそうになった。足幅の広い革靴だった。
 
マダム本人は新居に行ったものの、まだここに残されたものは多い。
ダイニングにもテーブルが残されていた。
キッチンにも、調味料、各種サイズの鍋、いろいろなものが残されている。
後日、荷物を運ぶのだろう。
詳しいことは聞いていなかったが、私はそう考えた。
 
部屋の中に猫はいなかった。
猫の匂いもしない。
 
そういえば、マダムは「ペット」としか言っていなかった。
数年前マダムは別のマンションで猫とともに暮らしていたため、今回も猫のことを「ペット」と呼んでいるのかと思い込んでいた。エサがある場所など、詳細は部屋にメモ書きしておく、としか事前に言われていない。そのため、「ペット」がどういう種類の生物なのか、本格的に想像がつかない。
 
バタン、と音がした。
私が今いるこの部屋ではないが、おそらく、2LDKの、マダムが借りているこの部屋のどこかでした音だ。寝室だ、と反射的に思った。
 
誰かいる。
あるいは、何かが。
寝室であろうドアに目星をつけた。ぴったりと閉まっている。
そのドアをノックした。
何の物音もしない。
わずかに開けてみた。
狭い隙間に目を押し当てて中を見たが、動くものはなかった。
ドアを押し開ける。
 
予想通り、そこは寝室だった。かつて寝室だったであろう場所だ。
ここにも家具が残されていた。大きなベッドが中央に置かれている。シーツもカバーもついたままだ。
 
ベッドカバーの上に、メモが残っていた。
「見なかったことにしてほしい」と書かれている。
筆跡から言うと、マダムではない。
マダムは幼いころから書道をたしなんでいたとかで、堂々とした達者な筆跡の持ち主だった。仲間内でたびたび話題にのぼるほどの達筆ぶりだった。
このメモの文字は、それよりは控えめで、クセが強い文字だ。
 
これは、今書かれたものなのだろうか。
それとも、マダムが受け取って、そのままここに置き去りにしたものなのだろうか。
 
「見なかったことに」。
私は特に何も見ていない。はずだ。
であるならば。
これは、マダム宛てのメモなのだろう。
私はそう結論づけた。
 
コトリ。
また音がした。私が立てた物音ではない。私は動いてすらいない。
どこからした音なのか判然としない。
やはり誰かいるのか。あるいは何かが。
 
少し、怖いような気がした。
もし、ここに誰かがいて、腕力に訴えようとしたら。
私は対抗できるのだろうか。
 
どうにもならない気がした。
少しでも助けにならないかと、持ち歩いている小さなバッグから、スマホを取り出した。怪しいやつがいたら、写真あるいは動画を……、
 
……撮ってやろうと思ったが、それも怖い。
悠長に写真や動画を撮らせてくれるだろうか。
かえって逆上されるのではないだろうか。
 
どうしたものかとスマホを見下ろした。
そうだ、マダム。
マダムに何か聞けないだろうか。
 
マダムにLINEを送り、しばし待つと返信が来た。
それによると
「そんなメモは知らない」
ということのようだ。
 
さらに言えば
「そこには誰もいないはず」
「いるのはペットだけのはず」
ということらしい。
 
「そうですか」
と打ってから気づいた。
ペットが何なのか、聞かなくては。
ここには生物の姿が見当たらないことも、報告しなくては。
そう思ってLINEを打ったが、今度は既読にすらならなかった。
 
スマホを見ていたのは時間にして10分足らずだったはずだが、ずいぶんと長い時間、画面を見ていたような気がした。
 
ベッドの上を再び見た。ベッドの上のメモ用紙を。
このメモは、マダムが残したものではない。
マダムの言うことが本当なら、そういうことになる。
だとすると。
だとすると?
 
誰に宛てたものなのだろう。
誰が誰に。
私、だろうか。
ここにいる誰かが、私に宛てたものだろうか。
 
「見なかったことにしてほしい」
どういう意味なのだろう。
私が何か見たのだろうか。
自分でも気づかぬうちに、何かを。
 
ドアが開く、かすかな音がした。
鳥肌が立つ。
音が近い。私のすぐ背後だ。
振り返って、身構えなくては。
怖い。
見たくない。
 
見なかったことにしたい。
私のほうこそ、こんなメモ、見なかったことにしたかった。
早く。
早く振り返らないと。
 
床をこするように歩く足音がする。
誰なのだろう。
心臓がドン、ドンと脈打っている。
 
振り返らねば。
怖い。
見るんじゃなかった。
見なかったことにしたい。
見なくては。
振り返って、見なくては。
 
スマホを持っているのに。
どこか……マダムでもいいし、警察でもいい。とにかく誰かに助けを求めたほうがいい気がしたが、今スマホの画面をのぞき込む気になれない。
 
気づくと、香りが強くなっていた。
私は強い香りが苦手なのに。
振り返りたくない。
 
置き去りにされたと思っていた荷物の中に、誰かの荷物が混じっていたのだろうか。唐突に、そんな考えが浮かんだ。
 
靴。
玄関で私がつまずいた、あの靴は男物だった。マダムのキャラクター的に、男物を履いていてもおかしくないし、マダムの結婚相手のものだとしてもおかしくない。
そう思っていたが、違うのだろうか。
 
違うのかもしれない。
見なかったことには、もうできない。
今がそのときだ。
私は一瞬息を止め、わずかな動作で後ろを振り返った。
 
(おわり)
 
 
いや、終わってない。「おわり」と書いたはいいが終わっていない。が、ここまででも結構な長さがあるので、ここらで切ったほうがよいのかなと思った次第です、どうも…。
 
お題で書いた話です。
↓お題を出した日のスイカ
 
 
ダークなほうに寄せると言いつつ、今回のこの話、どうにもできんかったなあ。
あ、お題は「見なかったことにしてほしい」「残り香」でした。
 
「見る」という視覚と、「残り香」という嗅覚がクロスしてバッティングしてる気がしないでもない。お題の組み合わせ間違えたような…五感という意味では統一感があるような…何にしろ、うまく生かせんかった…。
 
「見なかったことにしてほしい」というお題で私が思ったのは、こう…結婚が決まっている花嫁の前の家に、誰かが忍び込んでいる…のに出くわして「見なかったことにしてほしい」と言われる、というのを考えたんですが、それだとどうにもできなくてなあ…。いやあ…。ううむ。
 
「見なかったことにしてほしい」と言っても成立するキャラクターを、私は書けないのかもしれんなあと思ったり。何だろう、何と言えばいいのか、私はそのセリフを良きもののように描くことはできないんだよなとか…思ったりした。
 
まずい場面を見られて「見なかったことにしてほしい」と頼むのって、けっこう抵抗があるんだよなあ…。いや、実際にそういうことを他人に言ったことがあって、夜中に思い出して恥じ入ってジタバタした経験があるからこそ、そう思うのかもしれんが。どうなの、これって一般的な感情なのだろうか…。よくわからない。特に直す気もない。
 
「マダム」の説明が長すぎたな…。あだ名はまずいよなあと思いつつ、大学時代からマダムっぽい女性ってなんか素敵な気がしてしまい…。どうしても書きたくなってしまった…。結婚相手は「キング」というところまで考えたが、今のご時世、あだ名というのはどうなの…と、やっぱり思う。
 
あと、マダム、手際悪すぎな気がする…。こういうこともあるんかなあ。この状況にしたくて作った設定だったが、あまりにも手際悪すぎて現実味薄くなっとるんかね…。
 
 
今週のほかのお題。
 
「濡れた髪からゆっくりと雫が落ちる」「暗く濁った瞳」↓

suika-greenred.hatenablog.jp

 

「星が降る夜に笑いながらひたすらに後悔した」「反抗的な目」↓

suika-greenred.hatenablog.jp