映画見る見る。ミルミル曜日。
先週は「サンセット大通り」を見たんだよな。
今週は「双頭の鷲」を見ましょうか。
これは…ノワールではないな。ラブロマンスですかね。
ネタバレになるのかしら、えーと。
※ネタバレ注意。
悲恋ものだよな。ハッピーエンドではない結末。
で、フランス語ですかね。セリフがフランス語で、下に英語の字幕、右に日本語の字幕が出ていた。いくつ字幕つけるんだと言いたくなるが、ふたつくらいは普通なんだろうか。
英語の字幕も読みたかったが、日本語読むので精一杯になってしまって読めんかった…。Amazonのレビュー見ると、英語の字幕に関して書いている人もいて、これは英語の字幕まで読めるのが一般的なんだろうか…と考えたりした。日本語読むのも英語読むのも遅いわたくしであった…まあどうでもいいことだが。
公開年はいつなんだろうか…。Amazonだと「1953年」になっていて、Wikiだと「48年」になっていた。映画のほうのWikiの日本語版が見つけられなかったので、戯曲の「双頭の鷲」Wikiを参照した。そこに映画のほうの公開年も書いてあったのですね。フランスでの公開が48年なのかなあ。
えーと。映画の英語版Wikiにはそう書いてありますね…。こういうときに英語をスラッと読めると便利なんだが、まだそこまで行っていないマイ英語力…結局、Firefoxのアドオンで翻訳してしまった…。
Wikiには書いてなかったが、ジャン・コクトーがジャン・マレーのために書き下ろした話だとか何とか。Amazonレビューに書かれていた。
そこら辺の詳しい情報はわかっていない私だったが、納得する部分はあった。
俳優さんのお名前存じ上げなかったんですが、ジャン・マレーという俳優さんなのですね。超美形だなあと思った。昔の映画でも、美しい人は美しいんだなと…。当たり前なのかなあ。そんなことを考えた。
いや…。なんというか、美醜というのは社会的なもので、時代とともに基準が変わっていくものだと…思っていたが、そうでもないのかなあと思ったりした。48年、まあ1950年くらいだと70年くらい前?それくらいだと、まだそれほど「美」は変化しないってことなんだろうか。今見ても、ふつくしい。
時間の問題ではないのかなあ。社会の制度が大きく変わらないかぎり、「美しいもの」というのも変わらんのかな。
本能的に「美しい」と感じるものの中には不変なものもありそうではあるが…。どうなん。配列や比率に美を見出す、みたいなこともあると思うが、本能関係ないんかなあ。どうなんだろう…。
あとは…ちょいちょいジャン・マレーが半ズボンを履いているっぽいのが気になったりした。なんか本当にどうでもいいところしか見ていない私だった…。
最後のほうで、こう…王妃のイスに頬ずりしているのですよね。マレーさんが。そこになんとなくキュンとした。何だキュンって…。わからんけど。
何だろう、個人的に「溺愛」に対する憧れがあってですね…。「溺れる」という文字を使うのもアレなんだろうか、ううむ。とにかく、人が人を、対象は人じゃなくてもいいんですが、人が何かに対して、こう…尋常じゃない熱量の愛を持っているような…そういうものに対して憧れがあってですね…。愛って何だという問題もありますけど。
まあ、溺愛なので。尋常じゃなく、普通よりも愛しちゃっている状態なので、屈折すると命取りになるわけです。なのでまあ、溺愛の場合は屈折していないほうがいいねと…そう思うわけですが。屈折するなら淡白な愛で。あまりひとりの相手にこだわらず屈折したほうがいいのではなかろうか…。じゃないと、愛された側はめんどくさくて仕方ないよなあ…という、個人的好み。
そういう好みなので、溺愛っぽい愛が描かれているものは意外と私は好きなんだよなあと思ったりした。意外って何だ…。特に意外でもないのかもしれんが。ラブロマンスも、溺愛系なら好きかも知れんなあ…。それ以外のラブロマンスは正直どうでもいいけど…。
「双頭の鷲」で描かれているのが溺愛かどうかわからんが…。私には、かなりド直球な、お互い惹かれあっているのが丸出しな恋愛に見えた。なのでマイ心の「溺愛」カテゴリに入れたわけなんだが。実際どうなんだろう…よくわからんが。
評判はあまり芳しくなかったのですかね。コクトーのほかの映画のほうが評判がよかった?のだろうか。そうなのか…。それに関しては何とも言えん私だった…。