「きみと過ごす最後の朝」
「もうこれで最後だからさ、ミシダさん」
ナノはそう切り出した。
いろいろあってふたり同時にマンションを出ることになった。
もうここには二度と戻らない。
「何でしょう、ナノさん」
ミシダは心の底から興味なさそうに尋ねた。
「お互い正直に言おうよ」
「何を」
「何って、正直に言うことなんてひとつしかないでしょ」
「僕はずっと正直に生きてきました」
ミシダはピシャッと断言した。
沈黙が訪れた。
すでに荷物はそれぞれの新居に運び終えていて、この部屋には何も残っていない。
布団もないため、ふたりとも座ったままウトウトしただけだった。
次は。
次こそは、ちゃんとした手順で引っ越しをしよう。
ナノはカチコチになった体をいたわりながら、そう心に決めた。
次もこんな別れ方をするつもりなのか。
そんな考えがナノのぼんやりした脳裏をよぎったが、それに関して何か考える前にミシダがしゃべりはじめた。
「ナノさんはどうあっても僕が浮気したことにしたいんですね」
ミシダの口調にはトゲがあった。
むしろトゲしかなかった。
「違うなら違うと言えばいいでしょ」
「なぜ僕がそんな質問に答えなければならないんです」
ミシダは答えなかった。
ナノはまぶたを閉じた。
いつもこうだった。
浮気を疑われても、きちんと答えない。
そんなミシダの態度に、どれだけイライラしたことか。
こんな会話を何度繰り返しただろう。しまいには、浮気したかどうかよりも、話をそらそうとするミシダにイラ立つようになっていた。
ナノは目を開けた。
ミシダと目が合う。感情を感じさせない目だった。
ナノはグッとこらえた。彼の中では、「先に感情的になった者が負け」というルールが存在するようだった。ナノには理解できない。
おまえが答えないからイライラするんじゃろがい。
ナノはそう思ったが、それを口に出してもまた謎の勝利宣言をされるだけだ。
感情をコントロールすることは大事なのかもしれないが、なぜ浮気された(と思う)側がこれだけがんばって感情をコントロールしないといけないのか。さらに言えば、感情をコントロールしたところで、腹を割った話し合いには応じてもらえない。ナノにとっては、どちらに転んでも敗北である。
あまりに理不尽。
ミシダとの関係は、ナノにとっては「理不尽」の一言に尽きた。
「浮気してなかったというならさ。じゃあ、私のシャンプーとかコンディショナーとかが急にガンガン減ったのはなんでなのか教えてほしいんだけど」
「それの何がおかしいんですかね。僕が使ったとは考えられませんか」
ミシダは、平静な瞳でツラッと言った。
なぜ他人事のような言い草なのか。
「急に私のシャンプー使うのも変じゃない? 今までさんざん匂いが気にくわないだの髪質に合わないだの、使いもしないくせに文句言ってたのに」
「僕とて人間。考えが変わることもあります。体質が変わることだってある」
「あと、バスローブ。私が出張行ってるあいだにバスローブ使ったよね。何度も何度も。洗濯してくれるのはありがたいけど、洗濯するってことは使ったよね? ミシダさん、いつもバスローブ使わないのに。すっぽんぽんで出てくるよね、どっちかというと」
「まあそうです」
「そんなミシダさんが急にバスローブ使う気になったのはなぜか」
「浮気相手が使ったというのですか」
「そう。ミシダさんには、あのバスローブじゃ小さいでしょ。男女兼用のやつじゃないから」
「着ようと思えば着られる」
「そらそうだろうけど」
「いいかげんにしてください。単なる想像でしょう。何か証拠があるならともかく」
ナノは自分の視線が外れていたことに気づいた。
考えながら話していると、どうしても視線が外れる。
むしろそのほうが自然だとも思う。
思い出して、ミシダの目を再び見る。
ミシダと目が合う。ミシダはずっとナノを見ていたようだった。
怪しい。
見過ぎだ。
ミシダはいつもそうだった。
口論になると、目をそらさなくなる。まばたきの回数も減る。
それが逆に不自然だった。
演技をしているように見える。
一言で言うと、なんか怖い。
なぜそれほど身構えているのか。
柔らかく受け入れてほしかっただけなのだ。
これで怒るのは当然だと考える。ナノは、それを受け入れてほしかった。
だが、ミシダは受け入れない。
じっとナノを見る瞳と同じだ。
すべての期待は跳ね返された。
驚いたし、なぜ受け入れられないのだろう、と考えたこともあったが、いずれにしろ昔の話だ。ふたりの関係は破綻した。
浮気の証拠を集めて突きつければ、ミシダといえども白状したのだろうか。
そんなもの残っていないからこそ、ここまでミシダが強気なのだろうし、あったとしても、ナノが浮気の証拠を集めなくてはならない。
ナノは目を伏せた。
徹底できる気がしない。
誰かを雇うとしても、結婚していたわけでもない相手との別れにお金を使う気になれなかった。好きでつきあっていたはずなのに、なぜ終わりだけ、外注して証拠集めというビジネスの話になるのかが感情的に理解できなかった。
だが、最後なら。
最後に、聞いたら答えてくれるのではないか。
そんな淡い期待があった。
淡い期待は儚く消えた。
「のど渇いた。何か買ってくる」
ミシダはそう言って部屋を出て行った。
ナノの暮らす場所で、シャンプーだのコンディショナーだのバスローブだの、ナノが日常的に使っているものを勝手に使われる。
浮気の疑いがなかったとしても、他人に自分のものを勝手に使われるのが気持ち悪いと感じる。……わりと一般的な感情だとナノは思ったが、ミシダには理解できないらしい。
世の中には、硬い外殻を持たない生き物と、硬い外殻を持つ生き物がいる。
きっとそれだけの話なのだろう。
自他の境が曖昧だから他人の持ち物を勝手に使っても平気なのだろう。
ミシダも。
そう思いかけて、ナノは視線を落とした。
ミシダは物ではない。ナノの所持品ではない。
それはそうなのだが。
説明しても伝わらない。
そんなことを繰り返した結果、説明するのが怖くなった。
削られた自尊心も。
もらえなかった温かな気持ちも。
跳ね返された期待も。
ミシダに求めても、得ることは叶わないのだろう。
たったそれだけのことを心から理解するために数年かかってしまった。
たとえば子供がいたりすれば、自分のことばかり言っていられなくなる。
それもわかっている。
だが、ミシダとのあいだに子供はいない。
自分がミシダと子育てができるとはとても思えなかった。
ふたりだけでも生活が破綻してしまうのに。
ナノは、ミシダが出かけて、ほっとしていることに気づいた。ほっとした分、戻ってきたときのことを考えると気が重い。
またあの無感情な視線にさらされるのか。
視線に感情を感じられないのは疲弊する。
怒りのこもった目で見られるのも嫌なものだが、まったく感情の感じられない瞳というのも、また嫌なものだ。
何か買ってくると言っても、買って帰ってくるものはひとり分だろう。
ミシダはいつもそうだった。
私の分も欲しいといつも言い続けて、言い続けても買ってきてもらえないことが続き、くたびれてしまった。
荷物を運び出した部屋には、カーテンもない。
ナノは、外から姿が見えないように窓を避けて壁にへばりつくように座っていたが、ここからの眺めも最後だと思い直した。
窓から下を眺める。
それほど高い建物ではないため、道を歩く人の姿が近くに見える。
ミシダの姿が見えた。買い物を終えて戻ってくるところなのだろう。
この姿も見納めだ。
上からミシダを見下ろすことはもうない。
いや、上からだけでなく、いかなる角度からも、今後ミシダを見ることはない。
ナノは、ミシダの左手にもったペットボトルが1本なのを見て、そう思った。
(おわり)
☆
お題で書いた話です。
お題を出したときの様子↓
「お互いが嘘をつく」と「最後の朝」のお題ですね。
「お互いが嘘をつく」のお題は、描写練習用のスロットを回したもので「瞳を描写する」練習でもありました。
どうだろう、なんとなく動作で感情を表したい場面で「目」の描写をするようにしたが…これ、描写になっとるんかね…。「目」の描写と「瞳」の描写は違う気もする。いや、瞳を詳しく描写すると、気持ち悪くなりそうであまり書けんというのもある。目を閉じる、開ける、伏せる、それくらいしか書けん。
個人的に、あまりジェンダーっぽい観点から恋愛を描こうとは思っていないので、この話の「ナノ」さんも無謬ではないですね、きっと…。なにしろお題が「お互いが嘘をつく」だし。ナノさんも嘘をついているわけですね。意識にすら乗らんけど。「浮気したであろう」という疑い自体が嘘なのかもしれない。何にしろ、何も悪くない女性が一方的にモラハラパートナーにひどい目に遭わされる話ではございませんね。はい。
いや…まあだからといって、ナノさんを悪く言う気もないわたくしですが。どっちが悪いとは言えん。どっちも悪いとも言えん。わかったようなことなど言えん。
という、開き直り、かつ投げやりな態度。いや…ううん。ほかにどうしろと…。
今週は個人的に書きにくいお題ばかり引いてしまったなあ~。
浮気がどうこうな話になったのは、↑このトゥギャッタを見た直後だったからですね。そして、このトゥギャッタについたブコメでエアコン探偵増田について知り、以前読んだ「掛け持ち不倫」の記事を思い出し…という感じで作った話でございました。
「出張」云々というのも…このご時世に出張?と思わなくもない…職種によるんでしょうか。そうかもしれない。浮気する人たちは、今どきはどういうタイミングでするのでしょうかね…。今まとめられているような浮気ネタというのは、コロナ以前の浮気ばかりなのでしょうかね…。マイ経験談ではないので、新しい時代の浮気の仕方もよくわかりませんです、はい…。
☆
ほかのお題で書いた話↓
「そして血脈という名の指」「薄笑い」
「箱庭」